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ルーマニア語研究会

「ルーマニア語のすすめ」(直野 敦)

(「月刊言語」(大修館書店)19887月号掲載)

民族移動の十字路で

 ルーマニア語におけるスラブ文字

前回までの話で、ロマンス語の中でのルーマニア語の特色を構成する主要な要素をあげてきました。まず、基本となるバルカンの俗ラテン語、基層語としての(トラキア・)ダキア語と上層語および傍層言語としてのスラブ語(特に南スラブ語)の影響です。

以上の3つの要素は今日のルーマニア語の骨格をつくりあげた部分ですが、それ以外にもルーマニア語が直接・間接に接触した諸民族の言語から借用された語彙も無視することは出来ません。主として、ルーマニア語の語彙全体のより周辺的な部分を占めるにせよ、ギリシャ語(近代・現代ギリシャ語)、マジャール語(ハンガリー語)、トルコ語、フランス語、イタリア語、古典ラテン語などから借用された単語は少なくありません。トルコ語、ギリシャ語からの借用語には、廃語・古語となったものもありますが、フランス語からの借用語のように教育・文化水準の向上につれて質量ともに重要性を増してきているものもあります。

しかし、こういう隣接言語からの影響についてお話しする前に、前回に述べた南スラブ語の影響について言い残したことを補足しておきます。

ルーマニア語の最初の文献は、1521年の一貴族の書簡ですが、 そこに用いられている文字はスラブ文字、いわゆるキリル文字です。以後、19世紀の60年代はじめに政府がラテン文字の採用に踏切るまでの約3世紀半にわたってルーマニア語はこのキリル文字で書かれ、印刷もこの文字が用いられてきました。

こうなったのは、ルーマニア人たちが恐らく10世紀前後に南スラブ人たちを通じてキリスト教を受容し、そのため教会や修道院での祈りや説教が教会スラブ語と呼ばれる中世の南スラブ語を固定化した文語で行なわれた時期が長かったためです。ある時期までのルーマニア人にとっては、文字とは神の言葉を書き記したキリル文字にほかならなかったわけです。この流れに逆行してラテン文字でルーマニア語を表記しようとする動きはラテン系民族としての自覚が次第に知識人層から民衆の間に浸透してくる18世紀後半から始まってきます。

このように南スラブ人の宗教とルーマニア人の宗教が共通であることは、両者の精神文化の面での共通性を生み出しており、ルーマニア人の気質の中にはどこかスラブ人気質に通い合うものがあります。これまでは、どちらかというと、西ヨーロッパノロマンス語圏との文化的血縁性が強調されるあまり、ルーマニアの文化が少なくとも18世紀末までビザンツ・スラブ・バルカン文化圏に属していたことが忘れられがちでした。しかし、たとえばルーマニア民謡に歌われる「憧れ、憂愁、やるせなさ」を意味するdorという言葉にもどこかスラブ的な香りがつきまとっているようです。

 

 ルーマニア語の語彙におけるスラブ語

言語の面でも、前回に述べたようにスラブ語の影響は音声、文法、語彙のさまざまの分野に及んでいますが、ここでは語彙と造語法について少し補足しておきます。

スラブ語からの借用語は次のように語彙のあらゆる分野に及んでおり、ラテン語起源の本来語と同じ程度にルーマニア人の言語生活の中枢部に根を下ろしています。

表1に便宜的に品詞と意味内容に分けてスラブ語からの借用語を示し、表2にスラブ語起源の接頭辞と接尾辞を、表3にスラブ語に由来する人名・地名をあげておきます。

表1 (スラブ語からの借用語)

名 

社 

boier  地主、貴族

voievod  国主、国王

家 

maică  母親

nevastă  妻

心 

grija  心配、配慮

milă  哀れみ、同情

肉 

trup  身体

gleznă  踝(くるぶし)

衣 

cojoc  皮チョッキ

rufă  下着

軍 

război  戦争

izbândă  勝利、獲得

商 

târg  市場、町

ucenic  徒弟

道 

ciocan  ハンマー

lopată  シャベル

食 

hrană  食べ物

pită  パン

農 

brazdă  うね、わだち

plug  犂(すき)

漁 

corabie  船

mreajă  魚網

時 

ceas  時、時計

vreme  時間、天候

医 

boală  病気

rană  傷

信 

iad  地獄

rai  天国

自 

crâng  林

luncă  川原

動 

cocoş  雄鶏

veveriţă  りす

植 

bob  豆類、穀物

morcov  にんじん

鉱 

oţel  鋼鉄

var  石灰

その他

glas  声

stâlp  柱

形容詞

bogat  富んだ

lacom  貪欲な

bolnav  病気の

slab  弱い

vesel  快活な

scump  貴重な

動 

iubi  愛する

dobândi  得る

vorbi  話す

grai  言う

primi  受取る

zâmbi  微笑する

その他

da  はい、そうだ

prea  あまりに・・・すぎる

 

表2 (スラブ語起源の接頭辞と接尾辞)

接頭語

ne-

否定・反対

nebun 気違いの <(bun よい、有用な)

pre-

移行・移動、変化

preda 渡す、教える <(da 与える)

răs-(răz)

分離・強調

răzbate 踏破する <(bate 打つ、打ち負かす)

接尾辞

-ac

名詞・形容詞の派生

prostănac ばか者 <(prost 馬鹿な)

-aci

名詞・形容詞の派生

stângaci 不器用な <(stânga 左手)

-alnic

形容詞の派生

zburdalnic 腕白な <(zburda ふざける)

-an

指大・強調

juncan 若い雄牛 <(junc 若い雄牛)

-anie

動作・行為名

păţanie 受難・失敗 <(păţi 難儀する、苦しむ)

-ar

行為者名

sugar 乳呑み児 <(suge 吸う)

-aş

行為者名

codaş 劣等姓 <(coadă 尻尾)

-că

女性名詞の派生

româncă ルーマニア女性 <(român ルーマニア人)

-eală, -ială

動作名

cheltuială 費用 <(cheltui 費やす)

-ean

名詞・形容詞の派生

apusean 西の <(apus 西)

-elnic

形容詞の派生

prielnic 有用な ;(prii 役立つ、適する)

-enie

動作・行為名

curăţenie 清掃、清潔さ <(curăţa 清掃する)

-eţ

指小

drumeţ 旅人 <(drum 道)

-ice

指小

pădurice 小さな森 <(pădure 森)

-ici

指小

licurici 蛍(ほたる) <(licuri ほのかに光る)

-ilă

名詞の派生

zorilă 明けの明星 <(zori 夜明け)

-ină

名詞の派生

stupină 養蜂場 <(stup蜜蜂の巣、蜜蜂の巣箱)

-iş

名詞の派生

acoperiş 屋根 <(acoperi 覆う)

-işte

場所を示す名詞

porumbişte とうもろこし畑 <(porumb とうもろこし)

-iţă

女性名詞の派生

casieriţă (女性の)経理係 <(casier 経理係)

-iv

形容詞の派生

uscăţiv 干からびた <(uscat 乾いた)

-nic

名詞・形容詞の派生

datornic 負債者 <(dator 債務<責任>のある)

-u-

動詞の派生

dărui 贈与する <(dar 贈物)

-uş, -uşă

指小

pescăruş かもめ <(pescar 漁師)

 

表3 (スラブ語に由来する人名・地名)

人 

Aldea, Dan, Dragomir, Ioan, Ivan, Mircea, Neicu, Preda, Radu, Stan, Voinea

地 

Baia, Bălgrad, Cozia, Craiova, Crasna, Cernaia, Dobra, Ilfov, Lipova,

Ocna, Prahova, Predeal, Râmnic, Snagov, Suhodor, Vlaşca

河川名

Bârza, Bistriţa, Dâmboviţa, Ialomiţa, Moldova, Zlatna

 

 マジャール語(ハンガリー語)とルーマニア語

9世紀末にパンノニア地方に入ったマジャール族(ハンガリー人)とルーマニア人は約1千年の間、隣接する民族として深い交渉を持ってきました。相互の関係は必ずしも常に友好的であったとはいえず、とくに、ハプスブルグ帝国成立後のトランシルバニアでは、ルーマニア人は被支配民族として無権利な状態におかれ、言語の上でも強制的にハンガリー語を学ばせられる時代がかなり長く続きました。この強いられた2言語使用という条件下で、ハンガリー語からも多くの語彙がルーマニア語に借用されました。これらの語彙がルーマニア語に浸透し、定着しはじめたのは12世紀頃からのようです。その一部はトランシルバニア方言の枠内にとどまったままですが、標準語の中で重要な位置を占めている語彙もあります。後者に属する語彙のうち代表的なものを、表4に示しておきます。

これ以外に、ハンガリー語起源の多くの動詞が南スラブ語を介してルーマニア語に借用されています。否定法が、-ui 語尾に終わるもので、スラブ語の-ovati 語尾の動詞に由来しています。表5の動詞はその代表的なものです。

 

表4 (ハンガリー語からルーマニア語に借用され、標準語の中で重要な位置を占めている語彙

名  詞

社会生活

oraş  町   hotar  境、国境   gazdă  主人   nemeş  貴族   neam  一族

商工業

ban  金銭   meşter  職人   vamă  税関   chezaş  保証人

軍 事

puşcă  銃   puşcaş  射撃手

抽象語

gând  考え   chin  苦しみ   fel  種類   pildă 

その他

talpă  靴の底皮   ciupercă  きのこ   şoim  鷹   tâlhar  おいはぎ

 

表5 (南スラブ語を介してルーマニア語に借用されたハンガリー語起源の動詞)

alcătui

構成する  ←(ハン alkõtni

bănui

疑う  ←(ハン banni

birui

打ち負かす  ←(ハン birni

făgădui

約束する  ←(ハン fogadni

îngădui

許す  ←(ハン engedni

tămădui

治療する  ←(ハン támadni

 

 トルコ語からの借用語

14世紀後半から15世紀にかけてモルドバ公国とワラキア(ルーマニア)公国は、バルカンに侵入してきたオスマン・トルコ軍と勇敢に戦いましたが、圧倒的な軍事力の前に屈服し、トルコの従属国となりました。しかし、トルコ人とルーマニア人の接触は、ドナウ川下流や黒海沿岸地域を除けば主としてトルコ人官僚や軍人とルーマニア人支配層との関係に限られ、したがって、言語の上でもトルコ語の影響は、スラブ語やハンガリー語の場合に比べてすっと浅いものになっています。借用された語彙も衣食住・政治・軍事などの物質文明に関するものが中心で、抽象語などはわずかです。また、間接統治の枠内ではトルコ宮廷に任命されたり、派遣されたりしたギリシャ人官僚の役割が大きかったのでトルコ支配の時期はギリシャ語の影響が深まった時期でもあり、これがトルコ語の影響の深まりを阻んだともいえます。また、トルコ語からの借用語の多くがトランシルバニアには浸透しなかったことも言っておかなければなりません。

表6にトルコ語からの借用語の例を挙げておきます。

16-17世紀にはトルコ語の官職名、政治・軍事用語が語彙の中で占める比重が大きかったのですが、19世紀になるとこれらの語彙の多くはフランス語によってその地位を奪われ、急速に古語・廃語になっていきます。

 

表6 (トルコ語からの借用語

名 詞

住  居

duşumea

taban

天井

geam

窓ガラス

商  業

tejghea

カウンター

toptan

卸売り

cântar

食  物

cafea

コーヒー

pilaf

ピラフ

iaurt

ヨーグルト

台所用品

ibric

コーヒー沸かし

farfurie

tavă

衣  類

basma

ネッカチーフ

ciorap

靴下

fes

トルコ帽

職  業

dulgher

大工

boiangiu

染物師

vătaf

管理人

抽象名詞

berechet

十分な量

habar

知識

hal

苦境、悲運

形容詞

murdar

汚い

hain

残忍な

ursuz

不機嫌な

 

なおのあつしルーマニア語学)

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