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ルーマニア語研究会

「ルーマニア語のすすめ」(直野 敦)

(「月刊言語」(大修館書店)19886月号掲載)

スラブ語とスラブ人の大海の中で

 バルカンの民族と言語

 第一次世界大戦はバルカンの小都市サライェヴォでの一発の銃声から始まったといわれていますが、この事件は今世紀のバルカンにおける民族主義の激しさと複雑さを象徴する出来事でした。近代のバルカンで、オスマン・トルコ帝国の勢力が衰退するにつれて、ギリシャ人、ブルガリア人、アルバニア人、セルビア人、ルーマニア人たちは500年に近い異民族支配のくびきからの開放を求めて民族独立運動を展開し、19世紀から20世紀にかけて完全独立を達成しました。この中で生まれた民族意識が歴史の必然に根ざしていたことは認めざるを得ませんが、今日ではそれがバルカンの諸民族同士の敵意、反目を永続化させるもとになっているような気がしてなりません。アルバニア人とギリシャ人、ギリシャ人とトルコ人、アルバニア人とセルビア人、ブルガリア人とマケドニア人、ルーマニア人とハンガリー人などは今もなおお互いを猜疑と憎悪の眼で見ることを止めていません。いや、所によってはそれは激化の一途を辿っています。私はこれを心中密かに「バルカンの悪しき民族主義」と呼び、それが一日も早く解消することを願っていますが、あまり楽観視はできないようです。

なぜ、こんなことを書いたかといえば、それにはほぼ二つの理由があります。

ひとつは、近代国家の成立以前のバルカンではもっと自然で平穏な民族と民族の接触、共生、混血の過程が長期間あったことを忘れてはならないと思うからです。約15世紀にわたって、バルカンの諸民族は風俗・習慣、生活様式、文化、言語において相互に影響しあいながら、共通の文化圏を生み出していました。バルカンのいわゆる「言語圏現象」については、また別の機会に触れたいと思いますが、言語におけるこの構造上の相似性もより深い文化的共通性に根ざしていると考えるべきでしょう。バルカンの諸民族の言語の歴史、特にそれらの相互影響・相互浸透の歴史を知ることは、近代の「悪しき民族主義」を克服する方向にも繋がる、と考えるのは思い込みが過ぎるでしょうか。

もうひとつの理由は、この民族主義に引裂かれたバルカンにもやっと最近になって相互の理解を深めようとする動きが政治・外交の分野でも兆し八締め手織り、この地域の研究が今後の国際関係の針路を占う上でも重要になってきていることです。そのためにも、ルーマニア語を含むこの地域の言語の研究はさらに重要性をまして来るでしょう。

 

南スラブとルーマニア人

 

東ヨーロッパの脊髄とも呼ぶべきカルパート山脈の北に住んでいたスラブ人たちが大規模な南方、東方、西方への移動を開始したのはほぼ5世紀頃で、それ以後2-3世紀にわたってこの民族移送の波は続きました。バルカン半島は6-7世紀に二つの方向から南下してきたスラブ人の波に侵されたといっていいでしょう。一つの流れはウクライナ西部からモルドバ、ドブロジャ、ムンテニアを経てドナウ川を越え、トラキア(現在のブルガリア)、マケドニア、ギリシャへと向かったグループであり、もう一つの流れは、パンノニア(現在のハンガリー)からドナウ川を越えてイリュリア(現在のユーゴスラビア)へと向かい、アドリア海に達したグループです。第1のグループが今日のブルガリア人、マケドニア人の祖先であり、後者のグループが今日のセルビア人、クロアチア人、スロベニア人の祖先であることは言うまでもありません。

後の南スラブ人の祖先となるこの移住者たちがバルカンで遭遇した先住民としては、南にギリシャ人、その北に恐らくすでに完全にローマ化され、あるいはラテン・ローマ化の最終段階にあった古代民族の末裔たち、すなわちイリュリア・ローマ人、トラキア・ローマ人、ダキア・ローマ人などがいたはずです。ギリシャ人の地域に移住したスラブ人たちは、比較的短期間にギリシャ人に同化しました。しかし、その痕跡はギリシャの各地のスラブ起源の地名、人名、語彙となって残されています。イリュリア人あるいはトラキア人の一部で完全にはラテン・ローマ化されなかった住民、すなわち今日のアルバニア人の祖先は、スラブ語から深い影響を受けながらも、スラブ人に同化されず、むしろ一部のスラブ人を同化してバルカンの一角に生き残りました。それ以外のバルカン・ラテン語圏では結果はどうなったでしょうか?アドリア海沿岸のダルマチア地方では、19世紀の末に最後の話し手が死んで消滅したダルマチア語が残っていましたが、今もなおドナウ川南岸の各地にルーマニア語と起源を同じくするバルカン・ラテン語の名残り、バルカン・ロマンス諸語が残っています。もっともルーマニア語史の研究者たちの多くはこれらのミニ言語を広い意味でのルーマニア方言とみなしています。

これらの言語をダキア・ルーマニア語に対して対等の関係にある独立のロマンス語とみなすか、あるいは、これらを広い意味のルーマニア語の方言とみなすかということは、難しい問題をはらんでおり、今から30年ほど前にルーマニアの言語学会でも激しい論争がありました。今日では共通ルーマニア語(româna comună)原ルーマニア語(proto-româna)から分化発展してきた4つの方言として、ダキア・ルーマニア語、ア・ルーマニア語(別名マケドニア・ルーマニア語)メグレノ・ルーマニア語、イストリア・ルーマニア語があり、そのうち、独立の言語にまで発展したのはダキア・ルーマニア語だけで、他の3つは独立の言語とならないままに方言として消滅しつつあるという意見がかなり有力です。ダキア・ルーマニア語がドナウ川北岸の言語であることから、他の3つはドナウ川南岸の言語と呼ばれてもいます。

 

消えゆくバルカン・ラテン語の末裔

 

ドナウ川南岸の3言語あるいは3方言のうち、ア・ルーマニア語は現在もギリシャの北部、ピンドゥス山脈の東西両斜面、山麓、渓谷に、また、ユーゴスラビアの南西部からアルバニア南部にかけて住む、推定約30万人の住民(彼らはそれぞれの国や地方ごとに異なる「ア・ルーマニア人」、「マケドニア・ルーマニア人」、「ヴラホス」、「フェルシェロト」、「モルラク」その他の名称で呼ばれています。)にとってのいわば家庭内母国語です。彼らの大部分はある時期まで牧畜と農産物の運搬に従事してきたので、たとえばギリシャでは「ヴラホス」は季節的に移動する羊飼いを指す言葉にもなっています。彼らはその言葉と同じように古くからの風俗・習慣も保持しており、しばしば文化人類学者の研究の対象とされています、その起源については、諸説があり、詳しいことは分かりませんが、ドナウ川南岸の地域(現在のブルガリア、ユーゴスラビア南部)に広がっていたバルカン・ラテン系住民のうち、スラブ人に同化されなかった部分の名残りであろうと考えられています。スラブ人の移住によるア・ルーマニア語とドナウ川北岸のダキア・ルーマニア語との分離・断絶は10世紀ごろまでに生じていたであろうと推定されています。ア・ルーマニア語にはいった南スラブ語の語彙が古い形を持っていること、ダキア・ルーマニア語に12世紀頃からはいっているマジャール(ハンガリー)語の語彙がドナウ川南岸の方言には全く存在しないことが、その根拠としてあげられています。この方言がア・ルーマニア語と呼ばれるのは、r,lその他若干の子音を語頭に持つ単語が母音a-をとるからです。

 メグレノ・ルーマニア語はギリシャとブルガリアの国境に沿った地域で話されていた方言で第2次大戦前の推定人口は2-3万人でしたが、今では恐らく半分以下に減っていると思われます。この方言の話しては、ア・ルーマニア語のグループからさらに枝分かれしたものと考えられています。しかし、ア・ルーマニア人の大多数が東方正教会に属するクリスチャンであるのに対して、メグレノ・ルーマニア人の中には回教(ムスリム)に改宗した者が多く、そのため、ブルガリア、ギリシャで種々の迫害を受け、第2次世界大戦後トルコに移住した者も多かったと言われています。

 イストリア・ルーマニア語はユーゴスラビアのアドリア海沿岸にあるイストリア(イストラ)半島に住む、推定人口約1千人のルーマニア系住民の言葉で、現在、公用語であるクロアチア語の影響下に消滅しつつある言語です。この方言の成立は、12-13世紀にダキア・ルーマニア語圏の南西部方言の話し手がイストリア半島に移住した結果であると考えられています。

以上のように、スラブ人のバルカン半島への大移動の結果、ドナウ川の南岸地方ではラテン系言語は周辺に追いやられ、消滅したか、消滅しつつあるわけですが、ダキア地方においては逆に、南スラブ語が----ダキア・ルーマニア語に深い影響を及ぼしながらも----、消滅してしまいました。同時に、南スラブ語もバルカン・ラテン語の深い影響をこうむっています。この相互影響の過程は5-6世紀に始まって約千年近く続いたのですから、ルーマニア語が西のロマンス諸語とは大きく異なる特徴を備えるに至ったのも当然です。

 

南スラブ語の影響

 

ダキア・ルーマニア語に対する南スラブ語の影響を考える際には種々の側面を考えねばなりません、特に語彙の分野では時代区分の問題があります。6-7世紀に入ってきた単語と11-12世紀に入ってきた単語とでは大きな違いがあります。また、スラブ語の分化・発展につれてより具体的な語源の確定が要求されてきます。同じ南スラブ語でもブルガリア語からか、セルビア語からか、あるいは東スラブ(ウクライナ、ロシア)語や西スラブ(特にポーランド)語からではないか、といったような問題です。さらに、分布・範囲の問題、すなわち借用された語が一方言の枠内にとどまっているか、あるいは標準語の中に地位を占めているのか、といった問題があります、最後に、借用語がどのルートで入ってきたか、教会・修道院などで用いられた 教会スラブ語からいわゆる学識語として借用されたのか、それとも民衆語の次元で借用されたのか、という問題があります。こういった問題を個々の具体的な事例について調べていくと、スラブ語とルーマニア語の相互関係について、また一般にバルカンの文化について興味深いことが色々出てくるのですが、あまり余裕もありませんので、ルーマニア語が南スラブ語から受けた影響のうち重要なものを次に示しておきます。

 (1) 新しい子音h[h]j[ʒ]の出現。

 他のロマンス諸語と同じく、[h]の音を持たなかったルーマニア語にこの音を持つ多くの単語[hrană(食料)など]がスラブ語から借用された結果、[h]がルーマニア語の音韻体系に加えられた。同じく、j[ʒ]の音もスラブ語からの借用語を通じてはいってきた[jale(嘆き)]。

(2) シラブルのはじめのe[je]として発音すること。ラテン語起源の代名詞や動詞もこの影響を受ける。

be動詞にあたるfi(〜がある、〜である)の直接法現在形及び半過去形の語頭のe

 

 

現在形

過去形

 

単数

複数

単数

複数

1人称

2人称

3人称

sunt

eşti

este, e

suntem

sunteţi

sunt

eram

erai

era

eram

eraţi

erau

 

人称代名詞3人称の語頭のe

 

el

ei

彼ら

ea

彼女

ele

彼女ら

 

(3) 新しい呼格形の出現。 -ă, -ia に終わる女性名詞は呼格でスラブ語の単数女性名詞の呼格語尾 o をとるようになった。 soră soro! 姉さんよ!(妹よ!)

(4) 数詞の造語法はスラブ語の影響による。

11から19は「10の上に 1, 2・・・」の形をとり、20, 30・・・は2(X)10・・・の形をとる。ただし、100以外の数詞はすべてラテン起源である。(supre < ラテsuper)

1 unu / 2 doi / 3 trei / 8 opt / 9 nouă / 10 zece / 11 unsprezece / 12 doisprezece /

20 douăzeci / 30 treizeci / 80 optzeci / 90 nouăzeci / 100 o sută

 (5) 動詞不定法の形態の短縮化。ラテン語の不定法語尾 re の消失がスラブ語の不定法語幹(語尾 –tiを除いた形)の影響によるものだという主張がある。しかし、これについては研究者の意見は必ずしも一致していない。

 (6)語彙や造語法におけるスラブ語の影響は極めて大きいが、それについてはまた別に論じることにしたい。

 

(なおのあつし・ルーマニア語学)

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