[小論・意見のページ]

ルーマニア語研究会

大修館書店の「月刊言語」(19885-10) に連載された直野先生の記事は,ルーマニア語を学ぶ者にとってたいへん興味ある内容なので直野先生並びに大修館書店のご了解を得てここに再掲します。

正字法の変更、直野先生のご指摘などによる校正、あるいは内容の一部要約をしています。

 

「ルーマニア語のすすめ」(直野敦)

(「月刊言語」(大修館書店)1988年5月号掲載)

1 ロマンス語の中のルーマニア語

 ロマンス諸語

ルーマニア語がいわゆるロマンス語、すなわち古代ローマ帝国の共通語であったラテン語の口語、いわゆる俗ラテン語から発展してきた言語の一つであり、イタリア語、サルジニア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ガルシア語などと姉妹語であるということはおそらく皆さんはご存知か,聞いたり、読んだりしたことがあるでしょう。

また、地理に強い人であれば,他のロマンス語がポルトガルからイタリアに至るまで、地中海に沿った南欧の国々で話されているのに対して、ルーマニア語だけが南スラブ諸語、東スラブ諸語やハンガリー語に囲まれて、東欧の一角に孤立して存在していることなども知っているでしょう。

 

そこまで知っている人であれば、これはもう限りなく広い学問分野であるロマンス語学あるいはロマンス言語学の入り口に立っているようなもので、そこから一歩踏み出して、この魅力的な「ロマンス」連邦の一角に取りかからないというてはありません。フランス語やスペイン語のように登山道も整備され、詳しい案内図もある方向から上るのもそれなりに利点がありますが、やや険しく、人気の少ないカタロニア道やルーマニア道を上るほうが登山の醍醐味はより深く味わえるかもしれません。特に、ルーマニア語はロマンス諸語の中でも古い形をもっとも多く保っていたり(例えば名詞の格変化の維持など)、逆に、他のロマンス語には見られない独特の特色があったり(例えば定冠詞の後置など)で、ロマンス諸語の中でも変わり者ですから、研究の対象としても興味尽きないものがあります。

 

それでは、このように大家族であるロマンス諸語の中でルーマニア語はどんな位置を占めているのか、それを考えて見ましょう。必ずしも研究者の間で意見が一致しているわけではありませんが、普通、ロマンス諸語を西のグループと東のグループに分類する考えが有力です。その基準には、色々ありますが、名詞の複数形(および動詞の2人称単数形)の語尾が西ロマンス諸語では -sをとるのに対して、東ロマンス語では –s をとらず、-iその他の母音に変化すること、さらに、西方では母音ではさまれた無声破裂音(b,k,t)が、それに対応する有声子音(b,g,d)に変化するのに対して、東ではそのまま保たれること、の2点がよくあげられます。下の表1と表2の例を参照してください。

 

 

数詞

犬の複数

 

 

車輪

孫、甥

ラテン語

dous

cani,canes

 

ラテン語

rota

nepos,nepote

ルーマニア語

doi

câini,câni

 

ルーマニア語

roată

nepot

ダルマチア語

doi

 

 

イタリア語

routa

nipote

イタリア語

due

cani

 

レト・ロマン語

roda

 

レト・ロマン語

dus

tgauns

 

フランス語

roue

neveu

サルジニア語

duos

cani

 

オクシタン語

roda

nebot

古フランス語

deus

chens

 

カタロニア語

roda

nebot

フランス語

deux

chens

 

スペイン語

rueda

 

オクシタン語

dos

cans

 

ポルトガル語

roda

 

カタロニア語

dos

cans

 

 

 

スペイン語

dos

perro

 

 

 

 

ポルトガル語

dous

caes

 

 

 

 

1

 

 

このように、ルーマニア語はイタリア語を同じく東のグループに属するので、ルーマニア人にとっては、イタリア語が一番親しみを感じ、理解しやすいロマンス語のようです。もう25年も昔の話しですが、私もルーマニアに6年ほど滞在してから西ヨーロッパを旅行した際、フランスから汽車で国境を越えて、イタリア語が聞こえてきた時、たいしてイタリア語を知らないのに、思わず故郷に辿りついたようなほっとした気分になったものです。

しかし、同じグル−プに属するとはいっても、両者の間にはその歴史を反映して、大きな違いもあります。東のロマンス語がイタロ・ロマンス語(主としてイタリア語)とバルカン・ロマンス諸語(ダルマチア語、ルーマニア語)に分けられるのはそのためです。

 

今日のルーマニア人たちは自分たちの言語があの古代帝国ローマの公用語であるラテン語から発展してきた言語であることに大きな誇りを抱いています。そもそも、ルーマニアの国名そのものROMÂNIAが、「ローマ人の国」を意味しており、その他のロマンス諸語の中で言語名、民族名にROMAの名前を含んでいるのはレロ・ロマン語があるだけです。ROMANIAは他方、ヨーロッパでロマンス諸語の話されている地域全体をも意味しますから、ロマンス言語圏の辺境の一地方が全体に与えられるべき名称を勝手に自分のものにしていると言えるかもしれません。ルーマニア人たちの歴史に即して考えてみても、その国は「ダキア・ロマニアまたはダキア・ルーマニア」と呼ばれ、その言語は「ダキア・ロマニアまたはダキア・ルーマニア」と呼ばれるべきでしょう。そして、事実、後者[ダキア・ルーマニア語]という名称は、ルーマニアの言語学においては不可欠の用語として用いられています。そのことを少し考えてみましょう。

 

ダキア・ルーマニア語と基層言語

現在のバルカン半島にあたる地域には、紀元前の数世紀には次のような古代民族が居住していたと考えられています。エーゲ海の島々および半島南部にギリシャ人、その北にマケドニア人、さらにその気他の半島西部(今日のユーゴスラビア、アルバニア)にイリュリア人、東部(今日のユーゴスラビアの一部、ルーマニア、ブルガリア)にトラキアとその支族ダキア人。ダキア人はトラキア人の有力な一支族で、主としてドナウ川の北、ほぼ今日のルーマニアの領土と重なる地域に住んでいたようです。そして、紀元前一世紀にはトランシルバニア南部を中心にダキア人の国家が形成され、デケパルス王(87106)の時代には、ドナウ川南岸のバルカン地域を征服したローマ帝国とドナウ川を挟んで接触し、ダキア人国家とローマ帝国の間には激しい軍事衝突が繰り返され、トライアヌス皇帝の時代についに106年ダキアはローマ帝国に征服されて、その一属州になりました。それから約160年間ダキアはローマの支配下に置かれ、この期間にローマ帝国の各地方から送りこまれてきた官吏、兵士、農民たちの話し言葉であるラテン語が、被支配者であるダキア人に受容され、根を下ろしていったと考えられます。その過程で、ダキア人たちが自分の言語=仮にこれをトラキア・ダキア語と呼ぶことにしましょう=の特徴の一部を新たに修得した言語、ラテン口語に刻みつけていったのはのは当然でしょう。こうして、のちのダキア・ルーマニア語の祖語にあたる言葉が次第に生まれていったのでしょう。それは、バルカンの他の地域にも根を下ろしつつあったバルカン・ロマンス語の一方言としての性格をもっていたと思われます。

 

ローマ帝国はゴート族その他の蛮族の侵入に対抗できず、271年から275年にかけてアウレリアヌス皇帝の時にダキアを放棄し、以後ダキアもダキア人も歴史の表舞台から姿を消します。そして、約1000年後の13〜14世紀に、ルーマニア人としてバルカンの歴史に再登場するまで、ダキアの土地や住民の歴史は、闇に包まれてしまいます。彼らの歴史を知る手がかりとなる文献がほとんど残されておらず、わずかに考古学上のデータなどによって推測するしかありません。しかし、ダキア・ルーマニア語はおそらくドナウ川の両岸で存続していたはずです。そして、16世紀の前半にこの言語で書かれた最初の文献が現れることになるのです。

 

このように、ルーマニア語の成立・発展を考える際には、ラテン語の定着化の下で消滅していきながらそのラテン語に影響を与え、その中に痕跡を残したトラキア・ダキア語の存在を無視することはできません。言語学では、ルーマニア語に対するトラキア・ダキア語のような言語を基層言語と呼んでいますが、ラテン語からロマンス語への文化発展には他の要因と並んで、各地域の基層言語の働きかけも大きな影響を及ぼしています。フランス語に対するケルト系のガリア語もそういった基層言語の一つであり、また、イベリア半島のバスク語をこの地域の基層言語の名残りとみなす考えもあります。

 

多くの場合、基層言語についての資料は乏しいので、その影響の深浅についてもはっきりしたことが言えませんが、トラキア・ダキア語の場合も事情は同じです。トラキア・ダキア語で書かれた文献は小数の碑文以外になく、その性格については、インド・ヨーロッパ語族に属することぐらいしか、はっきりとは分かりません。それでも、ルーマニアやブルガリアの研究者たちは古代の地名や人名を手がかりにトラキア・ダキア語を解明しようと熱心に努力しています。これは、バルカンの他の消滅した言語、イリュリア語やマケドニア語(南スラブ諸語の一つであるマケドニア語と混同しないで下さい。)についても同様です。特にアルバニア人たちは、彼らの言語アルバニア語が古代のイリュリア語に由来することを証明するために努力を傾けています。

 

では、どういう面で、ダキア・ルーマニア語が基層のトラキア・ダキア語の影響を受けているのでしょうか。これには様々に異なる説があって、一致した意見は存在しませんが、いくつかの説を考えてみましょう。

 

 

太陽

 

 

戦い

 

 

その狼

ラテン語

sol,sole

 

ラテン語

nox,nocte

lucta

 

ラテン語

lupus ille

ルーマニア語

soare

 

ルーマニア語

noapte

luptă

 

ルーマニア語

lupul

イタリア語

sole

 

イタリア語

notte

lotta

 

イタリア語

il lupo

レト・ロマン語

sulegl

 

レト・ロマン語

notg

lutga

 

レト・ロマン語

il luf

フランス語

soleil

 

サルジニア語

nocte

 

 

フランス語

le loup

オクシタン語

sol

 

フランス語

nuit

lutte

 

オクシタン語

el lop

カタロニア語

sol

 

オクシタン語

noch,nuch

locha,lucha

 

カタロニア語

el llop

スペイン語

sol

 

カタロニア語

nit

lluita

 

スペイン語

el lobo

ポルトガル語

sol

 

スペイン語

noche

lucha

 

ポルトガル語

o lobo

 

表3

 

 

ポルトガル語

noite

luta

 

 

5

 

 

 

アルバニア語

 

luftë

 

 

 

 

 

表4

 

1に、音声の分野です。

ルーマニア語には、いわゆる曖昧音と呼ばれ、ăと表記される音があります。これは、アルバニア語にもブルガリア語にもあって、それぞれ、ë,ъと表記されています。多くの研究者はこの音がトラキア・ダキア語あるいはアルバニア語の場合にはイリュリア語に由来するのではないかと考えています。ただし、ă,ëと発音されるのは、ルーマニア語とアルバニア語の場合、アクセントのない語末の母音が多いのですが、これは他の言語でも類似した現象があるので、一概に基層の言語によるものと断定していいかどうか、疑問の余地が残されています。

 

ラテン語からルーマニア語に継承された単語では、母音に挟まれた-l-音は-r-に変化しています。表3で、「太陽」という単語のロマンス諸語における形をあげておきました。ロマンス諸語の中でのルーマニア語の特異な位置が分かると思います。

さらに、ラテン語の-ctは、ルーマニア語-ptに変化し、他のロマンスではそれぞれ異なる変化を経ています。アルバニア語はルーマニア語に近い-ftに変化させています。表4で「夜」と[戦い]という二つの単語のロマンス諸語における形を示しておきます。このような音の変化も基層言語によるものと一部の研究者は考えています。

 

2番目に文法の分野があります。ここでも、ルーマニア語はロマンス語の中でただ一つ名詞(部分的には形容詞)の前に定冠詞がつけられず、名詞に後置接続する語尾として定冠詞がつけられます。これも、アルバニア語やブルガリア語などと共通の現象で、多くの研究者は基層言語によるものと考えています。表5で「その狼」のロマンス語における形を示しておきます。

 

アルバニア語

ルーマニア語

bredh(<*bradh<*bradz,*braz)

brad(bradzu) モミの木

brez(<brēz<breno+zë)

brâu(brănu) 帯、腰

bukur 美しい

bucur(a) 喜ばす

bung,bungë カシの木、オーク

bunget 森の茂み

buzë

buză 唇

katund(katun)

cătun 村落、小集落

sorrë(<*čořë<*k’orna)

cioară カラス

kodër 丘

codru 林、森

kopaç 木株、幹

copac 木

kopil 若者

copil 子供

flojere,floer(<flojár)

fluier 笛

gardh(<*gard)

gard 垣根、柵

fluturë

fluture チョウチョウ

gati

gata 用意のできた

gjysh

gjuj 祖父、老人

gjymës(<gjymë-)

jumă(tate) 半分

madhe(<maze?)

mare 大きい

mal 山

mal 岸

mëz,mâz(<menz)

mânz(<măndzu,mănzu) 子馬、若駒

mirë よい

mire 花婿

mugull

mugur(e) 芽、蕾

6

第3に語彙の分野があります。ルーマニア語の中には、ラテン語、スラブ語その他の言語によって語源上説明ができず、しかも、ラテン語と同じかそれ以上に古い歴史を持つ語彙が、約200語あり、そのうち、80〜130ほどが、アルバニア語と共通の語彙であるとされています。その一部を表6に示しておきます。すでに19世紀の後半に活躍した言語学者ハスデウ以来、ルーマニア語の語彙のこの最古層の起源をめぐって、実に多くの理論が立てられ、トラキア・ダキア語やイリュリア語との関連が論じられてきました。この問題はアルバニア語の起源、アルバニア人たちの原住地の問題とからんで複雑な一面を持っています。ともかく、ルーマニア語の中のかなり重要な概念を表す単語がバルカン古代の基層言語に由来していることは間違いのないことで、ルーマニア語の特徴の一つになっています。

もちろん、ラテン語から直接に継承した約2000語の語彙に比べれば、基層言語に由来するものは量的には10分の1にも満たないのですから、それはルーマニア語のロマンス語としての基本的性格を帰るほどのものではありません。

以上、ここでは、ロマンス諸語のなかでのルーマニア語の位置について、バルカンの古代言語とのつながりを中心に考察しました。

(なおのあつし・ルーマニア語学)

 

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